映画 Diner ダイナー 感想!

生きる喜びを噛み締めて

生きることは食すこと

 殺し屋たちが集うお食事処へようこそ。ということで「Dinerダイナー」である。アクション性狂気と色彩性狂気そして人間性狂気を取り込んだこの作品はどこからチャン・イーモウ監督の「HERO」を思い出す色彩性のあふれた作品だった。それぞれの人間が出す色はそれこそ食材と同じ色。生きているからこそ色を発揮し、死んだからこそ色になる。まさに殺し屋たちの人間ドラマこそがこの作品の食材であると言わんばかりの演出だった。

 アクション性狂気といいつつもお食事どころではあるし、料理するボンベロも元殺し屋ということもあってそこまでアクションアクションしている作品ではない。最低限のアクションで色を見せているかのような…それこそアクションシーンはこの作品にとっての調理工程でしかないのだろうという演出がされていたように感じられる。

 色彩性の狂気は人間は食材であRことを示していたように思う。かつ死ぬシーンでとりわけ周りに濃い色が常に置かれていたシーンが数多くありそれが強く印象に残るようになっていると思えるところだ。それぞれの役職にイメージ色が設定されていてかつ死ぬと料理になるので強い色を出す。それが色鮮やかな作品の色彩性につながっていたように思えるところではある。
 あとは花びら等で原色の色を出すことによってそれを血の代わりとして血を出すことなく代わりの演出をしていたようにも感じられるところではある。 花びらの中で倒れ行くことによって花びら=血にしていたように感じられた。

 人間ドラマはそれこそ常軌を逸した殺し屋だからこそ常にボルテージの狂乱状態。であるからこそ一般人としてのカナコという存在が必要であるのだろうと思えるところではある。殺し屋を殺し屋として見るのではなくあくまで人として見るための存在としてのカナコ。
 遺物なカナコだからこそ殺し屋たちの殺し屋ではない側面も出てくる。まま御い害は人間性出す前から殺し屋状態ではあったといえるところではあるが。

 割と人とし手というか人間同士の恋愛感情なんてものはこの作品にとって異物ともいえるが取り入れられたのは意外だった。そこは捨て去ってもいいが…だからこそオオバカナコなのかもしれない。

 食欲と色彩欲、人間欲、人として扱われない世界だからこそ人間として自分自身を欲する一般には理解されることのない世界。だからこそ自分自身を失ったカナコは自分自身が失った欲を取り戻すこともできたのだろう。

 孤高の王とここの王、大ボスが蜷川幸雄氏だったりとネタとなる部分やそれこそこの制作人だからこそできたカメオ出演などもあったりするまさに演出の力がある作品である。

 様々な欲に生まれたこの作品はまさに欲望の演出が咎っていた作品だったと思う。より物語としては研ぎ澄ますこともできる部分も感じるが映像美が酒になる作品だった。
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