劇場版 機動戦士ガンダムNT ~ナラティブ~ 感想!

30年の亡霊

機動戦士ガンダムNT(ニュータイプ)

 今だ人類は重力という名の原典に囚われている。離れようともがいたとしても逃れることが簡単にできるものではない。だからこそ原典は聖典であるが聖典が汚される触れられることがあってはならない。聖典を聖典のままにすることによって人類は聖典を聖典として新たな重力へと導かれることができる。

 宇宙世紀としては久しぶりの劇場版。上映時間的に長編扱いなのでOVAの先行上映という形ではなくきちんとした劇場版であるということができるだろう。宇宙世紀の空白の時間を埋めるべく展開される新宇宙世紀シリーズの2作目(初代はUC)はUCから1年後の世界を描いた作品となっている。

 ユニコーン3部作の2作目ともいるかもしれないけれども、そういった意味ではこれから先に計画されているユニコーン自体の続編企画のための布石の作品ともいえるだろうと感じられる作品だったと思う。そうしなければならなかった部分もあるかもしれないけれども。

 この作品としてはニュータイプなんてタイトルをつけられているがニュータイプが行き着く先なんて示すことができていたかといわれれば個人的にはそうではないように思う。サイコミュとサイコフレームとニュータイプによって彩られているこの作品は過去のサイコフレームやニュータイプがかかわっている事象に対して答えを出しているがオカルトに科学を持ち出しているようにも見える。

 それが理論的に理に適っているとは思えない。それこそUCからというものサイコフレームやニュータイプ万能論を強くしていると思うし、この作品もその傾向に拍車をかけていると思える。 不老不死を得られるとか時を自在に行き来することができるとか、ガンダムにないものを持ち出してもなと。それこそこの理論が話されてているときもそれは仮説でしかないわけだがいつか本当にやってしまいそうでな。宇宙世紀という枠組みの中ではそういったことがd得たことはないからこそより異質さを感じてしまうところではある。

 過去の人間たちが起こした共鳴を理論をつけて説明したところで何も意味のないというかそうであってはならないとは思えるところだと思えてしまう。説明すればするほどに不埒になってしまっていると思える。

 

 90分ほどの作品の中でかなりの割合で戦闘シーンを含めている作品である。これはUCの後半でネオジオングが不動状態だったことへの批判を含めての改善されたところではあるのだが、冨野監督の言葉を借りると「戦闘シーンが多すぎてこれじゃあストーリーわからねーじゃねーか」という状態に真正面からなっている作品ではあると思う。


 全体的なストーリーの肉づけのみならず、全キャラクターへの掘り下げや過去描写の不足、メインストーリーは簡単なものとはなっているけれども、それ故にキャラクターンも魅力やストーリーの魅力をより出すことができたのではないのだろうかと感じられるところではあったりするところ。だからこそ戦闘シーンが物語を押し流してしまっている部分を感じてしまう。

 UCで評価された戦闘はそれこそMS同紙による戦闘というところはあると思う。そういった意味ではこれはMAとの戦い、ガンダムとMSの戦いになっているので大がかりの戦闘は作れても細かい動きやMS同士戦闘が楽しめるシーンが少ない。大味になっているところはあると思う。

 音楽も主題歌・挿入歌が目立ち過ぎかかりすぎて他の音楽に帯うぃての印象を生み出さないものとなっているし、戦闘シーン以外でのBGMがあるシーンのほうが少ないのではないのか?と思える。戦闘シーンによって日常シーンが圧縮されてそう感じるのではないかと思う部分もあるが、UCのころから日常(戦闘以外の)BGMは少ないしかつ本作は戦闘シーンのBGMも少ないところ挿入歌でBGMごまかしているのではと思えたりもするわけで。

 ネオジオングⅡが操縦者によって何引き起こすかわからないから消さなければならないというのは納得するとしてそれならば誰もいない状態で動き回るフェネクスの末弟を始めたユニコーン3兄弟も闇に葬り去らんといけないのでは?捕らわれているユニコーン兄ーさんもとっとと消さなければならいのでは?それなのに作中でフェネクスは野放しのままって駄目だろうと、ユニコーンも囚われた状態で解体されていないわけだし、UC2の布石にしては丸投げにし過ぎていると思う。

 バナージに関しても出し過ぎだと思う。せめてバナージという単語を言うのはないと思うところではあったりするので、わかるようにしていても作品錠が隠すのが筋というかそちらの方がわくわく感あると思う。

 結局ニュータイプでもパンピーでもサイコフレームによって魂の定着がなされるのならばニュータイプが行き着く先はパンピーと同じであると…。死であると、死んでこそ始まる魂の物語。先に行くかあとから行くのかの違いでしかない。それならば結局ニュータイプの行き着く先なんてない。

 ニュータイプになりたかった人間の物語。ニュータイプになろうとしたがあれこれ理由をつけてニュータイプになれなかったことを自己弁護する物語。

 宇宙世紀の器の大きさと器の限界を示しているようでもあった。歴史的にはもっと別の時代を選べるのになぜ偏るのかこれでは完全に俺が見たい俺の宇宙世紀がより強くなってくると思える。 というよりも宇宙世紀という名前を借りた俺のガンダムかな。
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